買い手が見つかった日、社長は泣いた。

契約書にサインが入った。

その日の午後、社長は従業員を会議室に集めた。私も同席していた。

「みなさんに、大事なお知らせがあります。」

そこで、社長の声が詰まった。

続きの言葉が出てこない。しばらく間があった。従業員たちは、静かに待っていた。

「会社を、引き継いでいただくことになりました。」

社長は泣いていた。

安堵なのか、寂しさなのか、私には判断できなかった。おそらく社長自身にも、わからなかったと思う。


この社長と最初に話したのは、その半年前だった。

「もう引退を考えている。でも、後継者がいない。」

従業員は10人いた。長年、地域に根ざしてきた会社だった。廃業という言葉は、最後まで社長の口から出なかった。

買い手を探す過程で、何度か候補が出ては消えた。条件が合わない。方向性が違う。社長のこだわりは、価格よりも「従業員を大切にしてくれるかどうか」だった。

最終的に決まった相手は、同じ業種の会社だった。面談で、先方の社長が言った言葉が決め手になった。「うちは人を大事にする会社です。一緒に働かせてください。」

その場では社長は何も言わなかった。帰り道に「決めます」と、一言だけ連絡が来た。


会議室で社長が泣いたとき、従業員たちは誰も驚いていなかった。

一人の若いスタッフが、静かに言った。「社長、ありがとうございました。」

それが合図だったように、他のスタッフたちも頭を下げた。

私はその光景を、少し離れたところで見ていた。


M&Aを「会社を売ること」と表現すると、冷たく聞こえる。でもその日の会議室にあったのは、27年分の信頼と、それを次の人に手渡す瞬間だった。

社長が守りたかったのは、会社という箱ではなかった。その中で働いてきた人たちだったのだと、私はあとになって気づいた。

事業承継は、最後の大仕事だと思っている。誰にも言えない時間を経て、ようやくたどり着く決断がある。その道のりに、最初から最後まで伴走することが私の仕事だ。

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