【事業承継小説】「奥さんにも、納得してほしかった」

3回目の面談が始まったとき、部屋の空気がいつもと違った。

売り手の社長の隣に、奥様が座っていた。これまでの2回、社長はいつも一人で来ていた。

特に説明はなかった。ただ社長は、奥様の方をちらちらと見ながら、少し居心地悪そうにしていた。


面談が終わってから、社長がぽつりと言った。

「奥さんに、買い手さんがどんな方か見てほしかったんです。納得してほしくて」

これまでの2回、その言葉は一度も出てこなかった。


考えてみれば、当たり前のことだった。

何十年も一緒にやってきた事業だ。社長が深夜まで働いていた夜も、資金繰りに頭を抱えていた時期も、ずっと隣にいたのは奥様だった。その事業を手放す。その決断を、一人でしていいはずがない。

社長はずっと、奥様にも納得してほしかったのだ。それを言葉にできなかっただけで。


面談が進むにつれ、買い手の社長が話し始めた。

事業のこと、これからのこと、スタッフのこと。言葉の端々に、この事業への敬意があった。

「これまで大事にされてきた事業が、社長の手から巣立ち、今後も発展していく姿を見ていただきたい」

その言葉を聞いた瞬間、奥様の表情が変わった。


重苦しかった部屋の空気が、少しずつほどけていった。

奥様は、ほとんど話さなかった。でも表情を見ていれば、わかった。この人に任せていい、と思い始めていることが。

面談の帰り際、社長が言った。「少し考えさせてください」

その声は、1回目・2回目とは違った。迷っているというより、整理しているような声だった。


事業を支えてきたのは、社長だけではなかった。

深夜まで続いた日も、先の見えなかった時期も、奥様はずっと隣にいた。

その奥様が、帰り道に何を言ったかは知らない。でも数日後、社長からの連絡に迷いはなかった。

「妻も、あの方なら大丈夫だと言っています」

それだけだった。


契約書に署名が交わされたのは、それからしばらく後のことだった。

帰り際、社長は深々と頭を下げた。奥様も一緒に。

あの重苦しかった入室の空気が、嘘のようだった。


M&Aは、社長一人の決断ではないことが多い。

長年支えてきた家族がいる。その人たちにも「よかった」と言ってもらえる日まで、一緒に考えたいと思っています。


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